「凡人は凡人のやり方があります。才能は凡人を裏切りますが、技術は凡人を裏切らない。努力で得た技術体系こそ、凡人の武器。凡人の刃だって、天才どもののど元に届く事がある。才人は、天才を惑わす技を持っている。何故ならば、才人は凡人であるからです。」
サクラノ詩 長山香奈
私は一体どれ程天才に迫れるのだろう。
才能という魔物に憧れた私は、実のない空虚な置物だ。
凡人たる私は、無傷ではいられない。代償なくしては、なにも得ることができない。
尊敬すべき凡人から、数多くを学んだ。
ある人からは謙虚であること、またある人からはポジティブであること。
そして、或いは――
天才の殺し方。
天才と凡人

才能は凡人を裏切りますが、技術は凡人を裏切らない。
天才は人を惑わす。
あるときは凡人からは類稀なる称賛(或いは奇異の目)を向けられる。
あるときは才人の欺瞞を炙り出す。
才人が偽ろうとする才能という化けの皮は、天才の前に、自ずと剥がされてしまう。
天才は執着しない。
凡人、或いは才人が身を削ってたどり着いた領域に、天才は苦も無くたどり着いてしまうから。
故に天才に俗世的な執着も苦悩も存在しない。
あるのはただ、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という根源的な苦悩のみ。
凡人はこのテの苦悩はしない。なぜなら、凡人は凡人故に、自ずと自分自身の存在と、その結末を識ってしまうから。
才能は愚か、その苦悩すら、凡人には享受できない。
けれど、凡人はただひたすらに、執着を持っている。
凡人にはあって、天才にはない、「執念」という一欠片。
才能ではなく、技術というモチーフ。
その一点においてのみ、凡人は天才に勝てるのではなかろうか。
天才を知る

天才の足跡を歩く。天才の影を踏む。
―――或いは、面を。
愚者に天才を知ることはできない。
天才と自らとの差を明確に識る、才人のみにそれができる。
その時抱く感情は、憧れというより、憎悪なのだと思う。
才人は努力を識っている。己の限界を識っている。
天才と相対したときの、己の無力さと結末を、否応なく識ってしまっている。
天才に憧れる私は、未だ天才を知らない。
けれど、才人が天才を知るのならば、一つ。
私は才人になりたい。
どれほど天才に迫れるか。

私は私が凡人であることを知っている。
ゆえにまた、どこから来たのか、どこへ行くのか、自ずと「識」ってしまう。
技術無き私は、愚者に過ぎない。才人など到底名乗れない。
けれど、努力の行き着く先に、才人があるのであれば、或いは私も…..
まだ何者でもない、凡人たる私は、天才になど決して成れぬけど。
才人にはなれるのかもしれない。
才人は、天才を惑わす技を持っている。何故ならば、才人は凡人であるからです。
才能はない、技術もない、そんな凡人の私ではあるが、
凡人の行き着く先に才人があるのならば、才人が天才を惑わす技をもつならば、
私はいつか、才人になろう。
才能は凡人を裏切りますが、技術は凡人を裏切らない。
凡人たる私の刃も、いつか天才共の喉元に届くと信じて。
さあ、高らかに宣言しよう。
「天才を殺すのはいつでも我々凡人だ!」
凡人は前に進むしかない。

人間の目が、横ではなく前に向いているのは、字義通り、前を見て歩むためなんだろう。
未来のことなど知ったことか!
希望はまだない。幸福になど気付けない。
才能はないし、技術もまだ陳腐だ。
それでも、この目は前を向いている。
はしがき
私の魂の作品の一つである、「サクラノ詩」と「サクラノ刻」を再送していたら、中二心がくすぐられ過ぎたので痛々しくもこのような記事を投稿してしまいました。(後悔してももう遅い)
作品のレビューとは別にして、作中の長山香奈の生き様がすごく刺さったので、少しでも共有したかった次第であります。
この記事をご覧になっている方のほとんどが、私の院試物語である「サクラノ院」(もちろんサクラノ詩とサクラノ刻から)目当てだとは思いますが、サクラノ院にも通じる(というか原点)的な思想を孕んでいますので、ノベルゲームではなくサクラノ院での投稿と相成りました。
長山香奈の生き方は、おそらく凡人であろう、多くの方々に刺さるものだと思います。
「普段ノベルゲームはからっきし」という方も多くおられるとは思いますが、是非、この機会にこの素晴らしい、「サクラノ詩」と「サクラノ刻」に触れていただきたく思います。
それでは、皆様、また機会がありましたら。
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