前回の記事に関連する形となっています。自己啓発です。
本記事は、大学受験で失敗した自分自身の経験を踏まえて、二度と同じ過ちを繰り返さないための自分自身への啓発と、未来の受験生が失敗を未然に防ぐための一助となるよう執筆するものである。
負け犬の遠吠えに意味はあるのかしら?
成功の要因は人によって違うけど、失敗の要因は多くの人で共通してると思うから、失敗談にも一定の価値があると思ってる。(早口)
経験からしか学べない愚者にならないよう、人の失敗から学んでね。
結論としては、井の中の蛙、いや蛙ですらなく井の中のボウフラ程度であったのだ。
マジで1、2年から勉強しろ
多くの受験生が、「1、2年から勉強しろ」ということを学校の先生や塾の先生に言われてきたであろう。だがそのうち、本当に実行しているものはどれほどいるだろうか。いいかえれば、「歴史」から学ぶことができているものはどれくらいいるだろうか。
「1、2年から勉強しろ」というのは、おそらく多くの過去の受験生が実際に後悔とともに抱いた感想なのだろう。すなわちこれは過去から得られた教訓なのである。
自分には関係ない
と考えてしまっているそこのあなた。それでは賢者にはなれません。僕と同じような凡人、いや愚者に堕することでしょう。
1、2年から勉強したほうがいい理由は二つあって、それは単純な学力の底上げと経験を貯めることである。
基礎学力の底上げというのは非常に単純明快である。自頭は確かに人によって違うが、1日24時間、1年365日というのは、全人類に共通している。時間だけは唯一平等なのである。
もう一つは経験。勉強にも経験値が必要である。具体的にいえば勉強法とメンタル。勉強に時間をかければかけるほど、自分に合った方法が見えてくる。
3年なって勉強初めて、我流で突き進んで失敗って普通に笑えない。
それワイや。
そしてメンタル、というか試験での立ち回り。いくら学力があっても、本番で力を出し切れなくては意味がない。普段の勉強と試験では、時間配分や解く順番を考える必要があるうえ、プレッシャーもかかってくる。試験当日に全力を出せるように、自分と勉強を通じて向き合っておこう。
もちろん、1、2年のうちは毎日勉強できていれば、娯楽に興じるのもよいと思う。ただ、積極的に部活動に所属している場合、話は別だ。部活動の拘束時間は長いため、部活動をしているならば、娯楽に興じる時間は物理的にない。
過去問早く解け。
過去問解こうにも、まだ夏だから実力伴ってないし、、、
それに、やっぱり直前期に本番を想定して解きたいから。
それは俺も思ってた。
過去問を直前期まで残しておきたい気持ちは凄くよくわかる。実際に俺もそうしたから。しかしその結果、
失敗した。
直前期(共通テスト後)にセット演習をするため、それまでずっと問題集ベースで勉強していた。そして、いざ直前期に過去問を解いてみると、、、
あれ、なんか違くね。
もちろん、歯が立たないわけではなかったが、今までやってきた問題集とは明らかに異質だった。(もちろん、それが東大らしさでもあるわけだが。)
常に目標から逆算したほうがいい。問題集を解くのも大事だが、ある程度学力がついたら、遅くても3年の夏には過去問を一度解いてみるべきだった。たとえ歯が立たなかったとしても、ある程度の基礎学力があれば問題の傾向くらいはわかるはずだ。
「セット演習」ということにとらわれすぎていて、気づかぬうちに過去問を有効活用できていなかった。そもそも、直前期に過去問を慌てて初めても、復習、解きなおし、他の問題集の参照をしていたら、せいぜい5年強が限界だと思う。僕は10年分を直前期にやろうとしたが、復習が間に合わなかった。
こうならないように、受験生諸君は自分の現在の実力に関わらず、
高3夏には過去問を解く
ことを強く推奨する。
結局質より量だった。
勉強は質か量か、これは太古の昔(しらんけど)から追究されてきた議題だ。
結論として、量のほうが大事だと思う。というか、質が大事というのは量をやっていない人の言い訳(俺)であると思う。というかそもそも質ってなんだよ。「量」と言われれば単純な勉強時間や解いた問題数など、定量的に表すことができる。でも質ってなんだ?これほど抽象的なものはないと思う。
勉強に集中できているかできていないかというのは勉強における「質」を定義するうえでは浅はかなものだと思う。量を追究するにしても、質を追究するにしても、勉強を集中して行うことは呼吸と同じくらい当たり前のことだからである。
質を効率に求めてみても、結局勉強できるやつは効率がよく、勉強できないやつは効率が悪い、ただそれだけである。
定義が曖昧な「質」と定量的に評価できる「量」、どちらが重要かは火を見るよりも明らかである。
それなのに、受験期の私は質を盾に量を怠った。
そしたら落ちちゃった!
君はおそらく天才じゃない。
中学生とはおそろしいものである。精神年齢、教養ともに半人前で、なんの実績も成果もないにもかかわらず自信だけはやたらとあり、自己顕示欲と承認欲求、そして自由への渇望があふれる時期である。
私の中学時代は、その自己顕示欲と承認欲求が勉学に向いていた。幼少期から、平均より少し頭がよく、(要領と運が少し良かっただけかもしれない。)勉学に関しては特に困ることがなかった。
これが諸悪の根源である。
あろうことか、自分を天才だと勘違いし、努力を怠る人間になってしまった!(オワリ)
勉強は努力ゲー
殊大学受験においては、勉強の才能があるかどうかより、どれだけ勉強に向き合えたかという努力量がものをいう。とはいえ、私自身は才能もなく、努力も大してできなかったわけだが。
勘違いを防ぐためにも、やはりレベルの高い環境に身を置くべきである。進学校や塾の存在意義はそこにあると思う。ぜひ、自分をもう一度客観視し、私のように勘違いしないように慎ましく勉学に励んでほしい。
そもそも不合格体験記に意味あんの?
意味ないでしょ。
即答だね。
意味はある、いやあってほしい。
世の中には合格体験記というものは広く普及している。合格体験記を読むことで、どうしたら合格できるか考えられるとともに、「自分でも合格できるのではないか」とモチベーションを高めることができる。ただその一方で、
不合格者もいることを忘れてはいけない。
光があれば影があるように、合格者がいるということは不合格者もいる。
そして、合格体験記が希望を示すならば、不合格体験記は絶望、というのは言い過ぎかもしれないが、受験の厳しい側面を否応なく反映する。
成功の秘訣と失敗の予防策、どちらを優先すべきか、これは様々な意見があると思う。ただ、個人的な意見でいえば、失敗の予防策を知っておくことのほうが再現性は高いと思う。
成功の秘訣は人によってさまざまで、その人自身の特性、環境、運によって大きく左右されうるものだからである。しかし、失敗に関してはある程度異なる人どうしで共通項がある。「これはやってはいけない」という禁則を把握しておけば、少なくとも失敗する可能性は低くなる。
そういう意味で、この不合格体験記にも一定の意味があるのではないだろうか。
夏は受験の天王山、受験生に向けて。
何人の受験生がこの記事を見ているか、それは定かではないがそういう変わり者もいることを信じて失敗から伝えられることを最後に伝えようと思う。
夏休みは思ったより短い。受験生のころは、夏休みになれば問題集を完璧にし、二次対策に向かえると思っていた。
しかし、そんなには甘くない。問題集はルートを進めば進むほど難しくなり、一冊を完璧にするために必要な時間は必然的に増えていく。だから終わらない。そして、問題集が終わっていないからと結局過去問にも手を出さずに終わってしまう。
まずは夏は意外と時間がないことを意識し、勉強に集中してもらいたい。そして、どんなに時間がなくても過去問は解いてほしい。
これらが敗北者からの最期の遺言である。
苦難の末に辿り着いたその頂から、
どうか未来が望めますように。
それでは!
コメント