どれほど言葉を飾ろうとも、私は東京大学という第一志望に落ちた敗北者だ。でも、いやだからこそあえていおう。
東大に落ちたからこそ視えたものがあると。
そんな、東大に落ちたからこそ分かったことを、前向き80パーセント、負け惜しみ20パーセントでお話できたらと思う。
負け惜しみ乙。
東大はやっぱりすごい。
「当たり前だろ」
そう思われるかもしれない。だが少し待ってほしい。たしかに、「東大」といえば言わずと知れた日本の大学の頂点に君臨し、受験生、いやそうでないものであっても一目置く存在である。
東大生のメディアでの露出が増え、良い意味では「東大生」というものがエリートで堅物な、宇宙人のようなイメージから、”自分たちと同じ普通の人間なんだ”という親しみやすいイメージに変化していったように思う。
ただ、その一方、東大のレベル、特に入試における難易度というものが世間から過小評価されているようにも思う。
「東大といえども、きちんと勉強すれば誰でも入れる。」
こういう主張を見かけることも少なくないし、時折「東大合格勉強法」というような、あたかも東大に確実に入れるルートがあるかのような塾や本の謳い文句も目にする。当の私自身も、
自頭はいいから、頑張れば東大受かるやろ
という安直な考えを持っていたことは否定できない。
もちろん、努力によって東大合格が不可能だとは決して言わない。実際、東大合格者の多くが自身の才能よりも努力の結果を強調する。
「東大合格は努力の領域か、いやはや才能の領域か」
この疑問に対する答えを私は残念ながら持ち合わせていない。それでもただ一つ言えること、それは
自分は東大に落ちた
という事実だけである。不合格の原因が、自分の努力不足にあるのか、才能のなさにあるのか、これに関しては今でも明確な答えを出せてはいない。ただ、自分のように東大に落ちる人が毎年大量にいる以上、「誰でも入れる」というのはいささか無責任な物言いのような気がする。
東大受験に限ったことではないが、何かを成し遂げる難易度というのは、
成し遂げようとしたものにしか分からない。
これだけは声を大にして言いたい。決して、東大に挑戦したこと自体を誇りたいわけではない。ただ、挑戦していないものから、挑戦した結果不合格であったことを紛糾されるのはおかしい。ただそれだけが言いたいのである。
挫折は早めに味わったほうがいい
決して、「挫折したほうがいい」と言いたいわけではない。叶うならば、何も挫折を経験せず、自分の思うがままに生き、そして死ねるほうが当然いいだろう。ただ、
挫折は挑戦の結果
であることは、強調しておきたい。挫折がない代わりに、なんの挑戦もない淡白な人生よりは、辛く、苦しい挫折を何度経験したとしても、色濃く、鮮烈な人生を送りたいと思う。
私は失敗も挫折もしないけれど、鮮やかな人生を送っているわよ。
こういう天才は例外として、天才でない我々がそんな色濃く、鮮烈な人生を送るには、挫折というものは避けては通れない。そして、挫折に遭うことが決まっているならば、
挫折は早めに味わったほうがいい。
挫折というのは、辛く、苦しい瞬間であると同時に、自分自身の現状を無慈悲にも正確に投影してくれるものである。挫折というものは、自らを見つめなおし、人生が好転する契機ともなりうるのだ。
そんな挫折だからこそ、味わうなら早めがいい。早いうちに挫折を味わっておけば、人生を好転させられるだけでなく、次また挫折を味わったとしても、より早く、適切な処置ができるようになる。
そういう意味では、私は東大に落ちてよかったとも思う。
もちろん、合格していたに越したことはない。「落ちてよかった」などというのは負け惜しみでもあるし、本気で合格をつかみ取ろうとしている受験生の前ではとても言えることではない。
ただ少なくとも、「東大に落ちた」ということは、自分の人生を好転させる契機になるうるのだとは言いたい。
自分は、これまでの人生で大きな挫折というものを経験してこなかった。割と要領はよかったので、大抵のこと、殊勉強においては、他の人よりも出来が良かった。
上手くいかないことがなかったわけではなかったが、特段真剣に向き合っていた事柄でもなかったので、気にはしなかった。今思えば、挫折が怖かったから真剣にやってこなかっただけなのかもしれない。
一応、中学校までは何とかなっていた。高校受験においても、かなり遊びながら一応は県内のトップ校に進学することができた。高校に入ってしばらくは、「自分には才能がある」と信じ、才能がない事実から逃れるために努力を怠った。
「勉強」さらにいえば「努力」というものに真剣に向き合い始めたのは高3だった。
. . . 遅いわね。
面目ありません。
(実際、高3スタートはくそ遅い。高1からもっとやっとけばよかった。)
高3、特に夏休み以降は我ながら頑張ったほうだと思う。「死ぬほどやった」とまでは言えないにしても、人並みには勉強に対して向き合っていたと思う。決して楽しくはなかったし、あの頃に戻りたいとは今でも思わないが、何か一つのことに一生懸命になった初めての瞬間だったし、この思い出は生涯忘れないものだと思う。
とはいえ、受験生の心境とは裏腹に、時は過ぎる。いつしか試験本番を迎え、そして合格発表で不合格を知らされた。
悔しい。
人生で初めてそう思った。失敗自体は何度も経験してきたが、自分が得意とし、真剣になっている事柄に関する失敗は、そうでないものとは全く違う意味合いを持つ。初めて挫折を経験した。
もし東大に受かっていたらどうだろうか。それはあまりに上手くできすぎなような気がする。きっと、「やはり自分には才能があるんだ」と過信に拍車をかけ、遠くない未来に挽回できない失敗をしているような気がする。
「失敗は成功のもと」は成功してこそ言える。
有名なことわざである。そして、かの高名な発明王エジソンは、こうも言う。
「私は失敗したことがない。ただ、1万通りのうまくいかない方法を見つけただけだ」
と。ただ、これに関しては半分正解で、半分間違いであると思う。
なるほど、確かに数多くの失敗を繰り返し、その都度適当な対処をし、結果として成功にたどり着いたのなら、「失敗は成功のもと」といえるし、結果だけを見れば失敗などしておらず、成功にたどり着くための手順を繰り返しただけのことといえるかもしれない。
しかし、万が一成功しなかったらどうだろうか。失敗を繰り返し、それでもなお成功に行き着かなかった場合、それはどう評価しても単なる失敗でしかない。
残念ながら結果論というのがこの世の常だ。「過程が大事」といくら言っても結局は「正しい過程を辿っていった上での予想される成功」を見据えているに過ぎない。いくら努力をしていたとしても、成果が伴わなければ評価されないし、たとえ評価されたとしても、やはりそれは「努力の末に達成される成果」を評価しているに過ぎない。
なれば失敗に意味はなく、過程は全く重要ではないのだろうか。否、そういいたいわけではない。
成功という結果が大事なのは前提として置いて、そこに至るためのある一定の正しい失敗あるいは過程というのもまたやはり大事なのだ。
つまり、今経験している失敗が、挫折が「成功のもと」になるのは、これからの自分の生き方次第なのだ。
だからこそ私は信じたい。東大に落ちたという挫折が、自分を成長させ、いつか大輪の花を咲かせることを。
ゆえに私は信じない。「失敗は成功のもと」などという無責任な妄言は。
大学院外部進学という選択肢
東大おちた、、、浪人か、後期進学か、、、
私じゃ、だめかな、、、
悩みまくる俺に天啓が舞い降りた。
大学院外部進学だ
どこからか「学歴ロンダ反対」という声が聞こえるような気がするが、一旦無視しておこう。
文系ならば、学部を卒業したのちは就職がセオリーなので通用しないが、理系の場合は院から別の大学に行くことができる。実際、横国では毎年、かなりの人数が東大、東工大、京大の院にいくようだ。
別に学部にこだわらなくても、院で東大いければよくね?
本格的に研究するのは院からだし。
やや安直かもしれないが、自分なりに考えたうえで結論を出した。
もし仮に浪人したとして、一年後に受かる保証はどこにもないし、なにより浪人した一年分の収入が減るということである。勝手に自分は将来年収数千万プレイヤーだと思っているので、一年はでかい。
もちろん、浪人という手段も、考え抜いた末のものならばよいと思う。ただ、これは進学校の生徒にありがちなのだが、学校の過度な進学実績推しから、盲目的に浪人という手段を選んでいる人も一定数いるだろうと思う。理系であれば、浪人だけでなく院試という手段もあるのだということを認識してほしい。
冷静かつ前向きな気持ちと、浪人への若干の恐怖から結局後期で横国に進学した。
逃げではない。
あくまで学部一年の拙い感想ではあるが、今のところ浪人せず横国に進学したことは後悔していない。「二期校の東大」とかつて称されていただけあって、授業のレベルはもとより、周囲の学生のレベルも高い。「後期組だから周囲より頭がいいはず」などと高を括っていたが、普通に頑張らないとついていけない。
交通の便を除けば、横国は総じて素晴らしい大学だと思う。(本試験で初めて横国に訪れて、交通の不便さに驚いた。下見くらいはしておくべきだった。)
とはいえ、正直院、つまり研究に限って言えば、正直東大に勝るところはないと思う。まずなにより、国から与えられている研究費が破格だからだ。自分の研究者としての素養を磨き、成果を出すには(それとちょっとの学歴補正)東大院をおいてほかにない。
東大院を受験します。
決心が揺らがぬため、今一度宣言しておきます。一応情報理工学院か工学院を受験する予定。
最後に
今回は結構真面目会となりました。「学歴」という、一部界隈では非常にセンシティブな内容を扱ったので、書いているときもやや緊張していました。
一応断っておきますが、この記事は筆者の主観を多分に含み、他者にその考えを強要するものではないということだけ明記しておきます。
いつか、貴女を振り向かせられるまで、、、 それでは!
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