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読みやすい”だけ”の本は嫌いだ。

ヒトリゴト
ヒトリゴト
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開幕早々、なかなか挑発的なタイトルで申し訳ない。とはいえ、これが私の本当の気持ちである。

世に出回る教科書や参考書を中心とした書籍について、(特に受験系のものとなると)分かりやすい、或いは読みやすい親切であることを売りにしたものをよく目にすると思われる。

そして、こうした書を手に取る多くの人も、分かりやすいこと、読みやすいこと、親切であることを要件にする傾向にあると思う。

そうした教科書や参考書が、多数のニーズに応え、また有用であることを、私自身実感してよくよくわかっているつもりではあるが、私はあえてこの潮流に逆らってみたいと思う。

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この記事を書いた人

東大で研究してD進確定させたい。
趣味はノベルゲー、アニメ鑑賞、読書等々。

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分かりやすさという詭弁

完全な余談であり、なんの意図もありませんが、マセマは数学教材で日本の最高峰に位置しているらしいです。数学科の皆さんはどう思われますか?

私が理想とする分かりやすさとは、「物事の本質が明快に示されていること」である。

一方、巷で蔓延している書籍には、「本質的でない部分に無用に紙面を割いた、冗長なもの」というのも多いと感じる。(怖いので例は出さないけど、何故かふとマ◯マという単語が浮かんできた。)

卑近な例

受験直前期にお世話になった参考書の一つがこれ。問題に対する解説が丁寧であるのみならず、「化学の考え方」そのものが学べ、余談も化学的に面白いものが多かった。化学の点数が直前でブーストされたのは100%こいつのおかげ。なお東大には落ちた。◯ね。

卑近な例として、それこそ受験対策用の問題集が挙げられる。

同じ問題を扱った問題集で、

式変形がやや省略されているが、発想、着眼点が非常に明快に記されている。
式変形を余すことなく記述しているが、発想、着眼点については淡白

という二種類を考えてみよう。

世に跋扈する書籍の標榜する「分かりやすさ」とは、「難しいが本質的である内容をうまく噛み砕いてい解説する」ではなく、「ある程度考えればわかることを冗長に掲載する」という場合が多い気がする。

本当の「分かりやすさ」ってなんだろう

最近熱力学の復習のために読み始めた通称「田崎熱力学」。「熱力学の面白さ」を独特で面白い角度からついてくれる名著。いい意味で物理の参考書らしくない。この本にもっと早く出会いたかった。

表層のわかりやすさを追い求めるがあまり、本質から逸脱し、内容が軽薄であっては、元も子もないのではないだろうか。

「分かりやすさ」という言葉の原義をここで問う意図も、私の解釈の正当性を訴える意図も毛頭ない。

ただ、表層の「分かりやすさ」だけを重要視した本は、「読みやすい」というだけの、陳腐なものに過ぎない、ただそれを伝えたいだけなのである。

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咀嚼する面白さ

今振り返ると、これよりも解説が充実している参考書はいくらでもあるので、敢えて今の受験生に進めることはないけれど、かなり印象に残っている参考書。高校一年のときにちょっと背伸びして買った。自分なりに問題の着眼点や発想といった思考のエッセンスを余白に記入して、ボロボロになるまで使い込んだ。自分の数学的思考力の原点はこ「プラチカ」であると言っても過言ではない。

私はちょっと難しいくらいの本を読むのが好きだ。

そういった類のものは、得てして自分なりに咀嚼する必要性が出てくる。

読みやすいとはいえないものも確かに多い。

けれど、それらは、時代を超えても変わらぬような、確かな本質を穿っている

或いは、途中式や、思考のエッセンス(それが妥当であるか否かは別問題として)を検討といった咀嚼の作業に、得も言えぬ快感を見出すことも少なくない。

本当の親切さとは

受験期のときにお世話になった。読み物としても非常に面白い。微積分とかゴリゴリに使っていたので、読み進めるのは大変だったけれど、この本からの学びは確かに今でも生きている。ちなみに得意だと思っていた物理は、東大入試本番ではカッスカスで苦手だと思っていた化学よりも開示点が低かった。ホンマに鬱(受験生は難しい参考書に背伸びするより過去問演習したほうがいい。ワイの歴史が証明しとる。)

親切さとは、ただただ相手を介護するように目的地(答えといってもいいだろう)へただただ連れて行くことなのだろうか。

私は、本当の親切さとは、適切なヒントを過不足なく与え、なんとか自力で目的地へたどり着くように指導することだと思う。

多少程度の高い内容に、多少背伸びして望むことこそ本質であり、それこそが学問の面白さなのではないだろうか。

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免責

かのショーペンハウエルも「読書について」の中で「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費す勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。」と言っている。漫然と読むのではなく、考えて(咀嚼して)読まなければ、読書する意味は乏しい。

今回は参考書に限って議論を進めてきたけれども、この論法は一般にも拡張可能であると思う。

無料のコンテンツがあふれる世界で、あえて本というお金も時間もかかるコンテンツにお金を出すということ、その意義を今一度考えてみてほしい。

ここまで持論を偉そうに展開しておきながら、今更免責のようで心苦しいが、この記事が「ヒトリゴト」のカテゴリに分類されているように、以上の主張はあくまで筆者個人の見解であって、他者に意見を押し付けるものでもなければ、自分の主張の正当性を訴えるものでもない。

私自身、まだまだ学士二年という若輩であり、理論の飛躍も多いことだろう。

あくまで、未熟者の【ヒトリゴト」であることに留意されたい。(まあ要するにあまりこの記事の内容は器にしないでください。)

皆様の善き人生の傍らに、良き本がありますように。

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