まずはじめに、晴れて第一志望の大学に合格された方、本当におめでとうございます。それは間違いなくあなた自身の努力の結果です。
そして、そうではない、おそらく合格者よりも多いであろう不合格者に、第一志望ではない大学へ入学される方に、私は声を大にして言いたい。
学歴コンプは悪じゃない。
※全くコンプを抱えていない人は、どうかそのままでいてください。第一志望の大学ではなくても、大学はとっても楽しいところですよ。
軽い自己紹介

本題に入る前に軽い自己紹介をば。
私は、関東の某国立大学に通う大学生です。受験生の頃は、東京大学理科一類を目指して勉強していましたが、届かず、後期試験で現在の大学に入学するに至りました。
当方、いわば「学歴厨」であり、第一志望不合格であることも重なって、「学歴コンプ」の気持ちは人一倍わかるつもりです。
学歴コンプのココが辛い

第一志望に受かった友人、あるいは自分の行きたかった大学に通う友人を見るたびに、複雑な気持ちになる。
東大のことを考えない日はないし、発狂しそうになることもしばしば。(ある意味これが院試のモチベにはなっているが。)
(とはいえ、私の場合は、現役でなんとか滑り止めの大学には受かり、進学することがかなったので、傷はまだ浅いのかもしれない。)
そういう意味では、浪人していない身の上で学歴コンプを標榜するのはあまりにも傲慢であり、同時にそれが私の弱さなのかもしれない。
とはいえ、私ですらこのような学歴コンプに陥っているということは、「浪人をされたかたはより深いコンプレックスを抱いている可能性がある」ということの証明でもあろう。
そもそも、「一度失敗している」という傷

学歴コンプの辛さは数多あるが、これがすべての原点であり、根源的な辛さであろう。
どのような事情、途中があろうが、殊受験に関しては結果が全てだ。
よって、どんなに努力していたとしても、大学受験に落ちた場合(少なくとも客観的には)「落ちた」という事実のみが漠然と横たわることとなる。
これまで結果ではなく、途中経過を重視して育てられてきたものが、人生のかかった大学受験で初めてこの事実を経験したとき、その痛みは如何ほどのものであろうか。
成功体験が重視される世の中において、大学受験の失敗はあまりにも痛い。
―――とくに、今まで失敗を経験してこなかったものにとっては
(そう考えてみると、早いうちから競争社会に入り込む中高一貫の強さはこういうところにもあるのかもしれない。)
受験の傷は受験でしか癒せない。(と私は思う。)
その癖、受験には金銭、精神、時間等、様々な要素が複雑に絡み合い、誰しもが傷を癒やす機会を得られるわけではないうえ、機会を得たとしても癒せるかどうかわからない。(さらなる傷を生む可能性は大いにある。)
その後の人生で受験で負った傷を「隠す」事はできても、受験という方法でしか「治す」ことはできないのである。
理想と現実のギャップ

学歴コンプは、第一志望だった大学(理想)と実際に進学した大学(現実)とのギャップに起因するように思われる。
現行の国公立大学の入試方式では、前期一校、後期一校であり、かつ後期はそもそも(難関大クラスでは)募集しているところが少ない。
そのため、難関大以上を受験する場合は、必然的に後期は別の大学を受ける必要があるうえ、後期の一校のみでリスクヘッジをする必要がある。
この様式から、私立と同様、後期は第一志望とのギャップが生じやすくなっている。
特に第一志望ギリギリ不合格の人にしてみれば、そのギャップはより大きく、(綺麗事を抜きにすれば、周囲との学力の差といった環境)コンプレックスを拗らせる要因となる。
―――私自身、ギャップとして一番感じたのは、学問に対する周囲との熱量の差だった。
前期組と後期組はどうしたって空気感に違いがある。
第一志望に落ちた劣等感はもちろんあるけれど、「でも後期入学だからなぁ」という事実と謎のプライド、これが私を大いに苦しめた。
ギャップによる周囲との壁、良くないことだとはわかっていながらも抱く、「前期の人より座学は得意なはず」というプライド、これは滑り止めに進学した人にしかわからないと思う。
第一志望へ受かった友人への複雑な心境

これは私だけの問題なのかもしれないが、告悔だと思って聞いてほしい。
私の高校の友人の多くが浪人あるいは第一志望に合格していった。
滑り止めの私立や国公立に進学したものもいたが、学歴コンプを拗らせているような人間は少なかった。
ゆえにであろうか、現役浪人問わず、第一志望に見事合格していった友人を見ると、今の自分の浅はかさといおうか弱さといおうか、透けて見えるような気持になってどうしようもなくなってくるのだ。
(いやはやこれは、単に私の醜悪な性質によるものかもしれない。)
最も苦しいのは、浪人して第一志望に合格した友人に対して。
「私も浪人していたら第一志望受かってたかなぁ」
とおもってしまうことである。
浪人をする勇気も実力もなかったくせに、浪人生成功者に対して要らぬ嫉妬を覚えてしまうのは、私の臆病と卑怯ゆえだろう。
この苦しみが私の性質によるものなのか、学歴コンプによるものなのかは定かではないが、もし同じ苦しみを持つ人がいたらと、足らずではあるが筆を執った。
理解されない苦しみ

―――「コンプレックス」という言葉はどのような意味を包含するのだろうか。
その原意同様、複雑で捉えようないイメージがあるとともに、漠然と「よくないもの」というイメージが世間ではあるように感じる。
人はだれでもコンプレックスを抱えて生きているはずなのに、「学歴コンプレックス」と言われると突然それを持つことがあたかも「悪」かのように形容される。
あるいは、学歴に関することすべてについて、大学生になると話題に挙げることすら冷笑の対象となりうるかもしれない。
私は幸運にも同様のコンプレックスを持つ人と大学で巡り合うことができたが、そうでない場合、学歴コンプそのものへの苦しみと同様かそれ以上に、学歴コンプが周囲から理解されない苦しみを味わうと思う。
(私自身、サークルの友人の前ではあまり学歴全般の話題は出さないようにしている。)
一番つらいのは、「そんなに拗らせるなら浪人すればよかったのに笑」と言われてしまうこと。
浪人は決して簡単なことではないだろうし、最難関となればなおさらだ。
特に進学校出身者は、「浪人が当たり前」という環境で育つことが多いため、余計に周囲との違いに苦しむこともあるかもしれない。
「コンプレックスを抱えている私がおかしいのかな」と自分を責め立てる人もいるだろう。
「こんなに苦しむのは今の環境のせいだ」とさらに拗らせる人もあるかもしれない。
ゆえに私は、あえて声高に叫んでみよう。
「学歴コンプは悪じゃない」と―――
学歴コンプは悪じゃない。
コンプは努力の証
コンプは確かに美しくはない。
どう美化しようとしても、泥臭さは拭えない。
とはいえ、その泥臭さこそが「努力の証」なのではなかろうか。
人一倍目標に対して努力して、それでも届かなかったからこそコンプレックスが生まれる。
結果主義の受験ではあるが、幾人かは、少なくともあなた自身は――― 過程を評価してあげてもいいのではないだろうか。
「大学がすべてじゃない」というけれど…..

多くの大人が、「大学だけがすべてじゃない」と口にする。「どこに行くかではなく何をするかが大事」と綺麗事を並べる。
もちろん、受験から距離を置いた大人たちだからこそ見えるものというのはあるだろう。
しかし、それでも高校生活(あるいは浪人生活)を大学受験に捧げた者にとっては「大学受験」が全てであり、第一志望に受かるか否かが今後の人生を左右するものかのように見えてしまうのである。
その合否への執着こそが「努力」の証左なのだから。
受験から身を引いた大人が、当事者に対して綺麗事を口にするのは、――それが正しいか否かは置いておいても―― いささか無遠慮で無責任な言動ではなかろうか。
挫折が人を強くする(と思いたい。)
私がそう信じたいだけかもしれない。
このトピックスについて深堀りしたいが、それは下記の記事に委ねることとする。(メンドウクサイワケジャナイヨ)
まあ要約すると、「どうせ挫折はするべきだから、この段階で味わえてよかったと思うしかないし、悔しさをバネに勉強頑張ろう」っていう月並みなお話。
現実的に取りうる選択肢
※コンプ拗らせて他者を陥れるとガチで予後不良なのでチュウイ。
傷を「癒やす」

先述したように、受験の傷は受験でしか癒せないと思う。
癒やす、それは再受験(この場合浪人に限定)することと同義である。
再受験の方法としては、①予備校浪人 ②自宅浪人 ③仮面浪人 が挙げられるが、個人的には①をおすすめしたい。
私は浪人をしていないので完全にエアプではあるが、①、③をしていた友人を観察したうえで考えたことなので多少の参考にはなるかもしれない。
浪人は、それこそ一年を受験勉強に捧げるものであるから、環境が非常に大事になってくる。
①に関して、予備校代という金銭的側面を別にすれば、受験勉強に集中する環境が最も整っている。(予備校でも勤勉な人とそうでない人で2極化するらしいので、友達付き合いは考えたほうがいいらしい。)
②は、多分精神イカれる。自宅に引きこもって自分と向き合ってたらおそらく多くの人が鬱クワガタする羽目になる。
③はそもそもきついと思う。周囲が大学生エンジョイしてる中で勉強すんのは精神的にもキツイだろうし、特に理系に関しては受験勉強と大学の授業を両立するのはかなり厳しいと思われる。(余談だが、某公立大には仮面浪人サークルという物があるらしい)
傷を「隠す」

「癒やす」に対応させるために「隠す」としたが、実際は「昇華する」というのが正しいと思う。
具体的には就活と院ロンダ(これ自体あまりいい言葉ではない)である。
とはいえ、もし仮に就活や院試、その後の社会人、研究者生活が順風満帆なものになったとしても、傷そのものが消えるわけではない。
実際、どんなに成功者に見えても、学歴コンプを引き摺っている人というのは以外に多く存在する。
(おそらく、学歴コンプのいう「学歴」が学部の大学を指しているからだろう。)
結論として
学歴コンプの一番厄介な点は、「失敗を学歴のせいにしてしまう」ということだと思う。
故に、将来的に学歴コンプが解消されるかどうかは、これを言っては本末転倒なのだが―― 結果次第である。
「結果的に、私の人生は幸福だったのだ」
こう思えるように、生きていくしかないのだ。
学歴コンプに限らず、あらゆる失敗について、その失敗を「よかったもの」として将来的に捉えられるか否かは、将来的に自分が成功しているか否かに左右される。
結果主義の社会において、因果は崩れる。
結果によってその過程が評価される。
将来の結果で、今の自分を肯定するために、今はただ頑張るしかない。
―――そして私自身は、一生この傷を引き受けて生きていくのだろう
最後に
大学受験で失敗を経験したあなたは、誰よりも謙虚になれるはず。
自分の無力さというものに、若いうちから気付けたという意味では、その不合格にも意味があったはずです。(というか意味を見出さないとやってられない。)
(大学生ごときが何を語ってんだと思われる方もおられると思いますが、ご容赦願います。)
これからどんな進路を皆様が取るにあたっても、その傍に失敗者ゆえの「謙虚さ」と失敗を乗り越えたがゆえの「自信」が常にあらんことを、切に願います。
そして何より、
第一志望にストレートに受かる人より、挫折を味わって一度コンプ極めたほうが人のほうが、「深み」がある。以上!
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